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「丁髷(ちょんまげ)」とは武士や民が結った髪型の事。
正確に言えば丁髷は江戸時代頃からの髪型の事で、「髷(まげ)」という髪型の種類の一つです。
名の由来は、横から見た髪の形である「ゝ」からきています。
これを武蔵野用語で「ちょん」といい、それが音訳で「丁」に当てられたからといいます。
また、武蔵野用語で「ちょん」は小さい、ちょっとという意味を持つのでそれも由来の一つとされています。
丁髷を束ねるときは、髪を後ろで一束にし、2~3㎝ くらいで折り曲げます。
次に、「元結(もとゆい;もっとい)」という紙でできた帯で根元と曲げた髪とを結び、先を整えて月代に乗せます。
江戸時代後期では、髪膏などを塗って固め、髷先を少し上に上げるのが流行ったようです。
髷という文化では、遥か古墳時代からあったと言われています。
「美豆良(みずら)」といい、耳の前で髪を垂らし、それを結い上げたもの。
更に元を辿ると、エジプトの壁画にも髷の原型が描かれているそうです。
江戸時代後期には老人の頭の問題を隠すために、大体の人は「月代(さかやき;つきしろ)」を剃るように言われました。
月代とは丁髷にした時、頭のてっぺんにある毛の無いところのことです。
実は身分や商業、さらには年齢などで大きく差が出ているのが髷の面白い所。
女性の髪形は今昔も流行があるのは当たり前ですが、男性の髪型は案外注目されない所です。
丁髷にも八丁堀、大銀杏、小銀杏、疫病本多、本多、前立髪、大月代、中剃り・・・など様々な結い方があり、
地方の藩や幕府、皇居などでも規則や流行がありました。
下級武士や一般民などは、月代を剃るお金が無いので、ちょっと伸ばしたりする事もあるようです。
また、子供は男女関係なく束ねるだけ。月代を剃るのは戴冠(成人)してからです。
なぜ、丁髷という髪型が生まれたかといえば、飛鳥時代より烏帽子(えぼし)を被る際に生え際を隠す為に「月代」が生まれ、
その後、後ろで短く束ねる「茶筅髪(ちゃせんがみ)」が流行ると同時に、平安時代になり兜を被る際に蒸れを防ぐため丁髷を結い、
そこに兜を乗せ風通しをよくしたのです。月代(さかやき)は「逆気(さかいき)」が転じたものだとか。
丁髷は似合う人が結えばかっこよく見えますが、それなりの人は・・・それなりです。
江戸時代では武士の嗜みですから、せざるを得ません。
今でも、束ねたり結ったりするのはヘアースタイルの基本ですよね。髪膏も「ワックス」と名を変えて使われています。
今も昔も、ヘアースタイルの基礎は変わっていないのです。


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